ヒトメボ

サブカル系歴史作家

堀江宏樹

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 2012年4月8日の放送で話題になった大河ドラマ「平清盛」の場面、あなたは見ましたか? そう、平清盛の弟・平家盛が、藤原頼長に抱き寄せられて押し倒される……というどきどきのワンシーン! 家盛演じる大東駿介さんと、頼長演じる山本耕史さんの麗しい絡みに、なんだか禁断の世界をのぞき見ているようで、どきどきとした!という女性も多かったのでは?

 実は、藤原頼長が男色家だったのはわりと有名な話。それどころか、平安時代には武士が男性に抱かれることで出世した、という話もあったそうなんです。禁断の男色の歴史について『乙女の日本史』(東京書籍)の著者である歴史作家・堀江宏樹先生に聞いてみましょう。

「男色文化の最古の歴史は、日本書紀のなかで確認されています。内容は、神官の天野祝(あまののはふり)が、『うるはしき友』であった小竹祝(しののはふり)の死によって後追い自殺をしてしまうという、なかなか過激なもの。また平安時代は、結婚して後継ぎを産む義務さえ果たしていれば、外で男性同士が愛し合っていても、周囲から認めてもらえる時代でした。妻でさえ、『男色は別腹』と黙認してくれるほどだったようです」

 でも、もし私の未来の旦那さまが「今日は○○くんとデート!」なんて家を出ていったらショック。このころの夫婦にとっては後継ぎを産むことが最重要課題であり、いかに現代の結婚とはかけ離れたものであるかが伺えますね。では戦国時代になるとどうなるのでしょう。

「平安末期から戦国時代における男色文化は、お互いの特別な絆を象徴するためのもの。例えば、戦場において後輩が上司を尊敬する気持ちと、恋慕う気持ちはとても近いもので、その証が性愛で結びつくことだったのですね。ちなみに織田信長も男色家で、部下である前田利家と関係していたという説もあります」

 平安初期に続き、政略結婚が一般的だった戦国時代。結婚が打算的なものである一方で、純粋な恋愛は男性同士で行うもの、という風潮が生まれつつあったようです。ううむ、ますます禁断の香り。

「戦国後期から江戸時代は、同性愛の関係は『7回生まれ変わってもまた出会って恋におちる』といわれるほど、夫婦の縁よりもよほど深いと考えられていました。当時の男女は利害関係で結婚せざるを得ませんから、男色こそ『たった一人の男性とめぐりあえた!』と思える、唯一の関係だったのです。ちなみに、武田信玄は男の恋人に『浮気したことの詫び状』を送ったと言われていますし、伊達政宗はヤンデレの部下に恋されてしまったなど、武将たちの男色エピソードも残っています」

 ここまで聞いていると、そもそも日本は、性に対してとても奔放な文化だったという印象ですが、堀江先生によれば「現代における、『性には慎み深くあれ』という考えが生まれたのは明治時代以降。これらはキリスト教文化の影響によるもの」とのこと。

「彼らは結ばれても子どもを産めない分、掛け値なしの恋愛でしか続きません。その分、より男色に燃えるところがあったのでしょう」なんて話を聞いてしまうと、男色がロマンティックなものに感じられますね。

 日本の男色の歴史をひも解いていくと、「誰かを一途に愛したい!」という古人たちの強い思いが見え隠れするような気がしてきます。そう思うと、今は打算なしでも、本当に好きな人と結婚しようと思えばできる、幸せな時代なのかも。そんな時代に生まれてきたからには、純粋に愛した人と結婚したいなあ……なんてこと、つい考えちゃいますよね。

(小野田弥恵/プレスラボ)
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ライター

小野田弥恵

プレスラボ

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